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"Idle Talking About My Interesting things"




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「国語より数学の方がはっきりしていていい」
「数学にはちゃんと答えがあるけど、国語には明確な答えが無い」

というような内容の発言を何度か聞いた覚えがある。

だが果たして本当に国語に明確な答えはないのか?

私は寧ろ、以下のような言い方をした方が真実に近いのではと思う。

「国語には、明確な答えがないとしても、明確な間違いが常に存在する」

このバックグラウンドには、児童期における情緒教育の真の目的(国家単位)といった問題が絡む。
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知性とは何か?

知っているか知らないかの知識にはそれほどの価値は無い。それは唯知れば済む。
メモリーさえあれば、サルでもPCでもできる。

例えば、ゾウリムシについて世界一見識のある人とはどのような人か?
それは恐らく自身がゾウリムシについてどれほど知らないかということを世界で一番明確に知っている人物である。
※もしかしたらこの文章に反感を覚えるかもしれないが、あくまでこれは私の一意見に過ぎないということをお忘れなく。

逆差別(reverse discrimination)というものがある。簡単に定義すると、「差別を無くすための運動が行き過ぎてしまい、逆に今まで差別をしていた立場の人々が被差別者となる現象」のことだ。

さて、ここで疑問が生じる。
「逆差別」も忌むべき「差別」のひとつだろうか?
例えば、「女人禁制」は重大な差別問題として取り上げられるのに、「女性専用」はいくらでもあるのは何故だろう? 女性の雇用を法的に促進って…こんなにオープンで意図的な差別はなかなかないw それになんで黒人の白人に対する差別行為はそれほど問題にならないのか?
これらは虐げられていた者たちの単なる憂さ晴らしか、それとも歴史上の被差別者を救うためのひとつの正義のあり方か?

(※ここから先は過去のエントリーの「"discrimination"」を先に読んだ方が理解し易いと思う)
差別について考える。

差別って言うのは悪いことだ。絶対にやってはいけない。それは人の倫理に外れたことだ。…

じゃあ世の中の大抵の人は”差別”していないのか?
いやそんなことはない。何故なら大概の差別は意識的所作ではなく無意識的な振る舞いのことであり(いうなれば一種の”反射”)、更に言えば差別かどうかの判断とは受けて側が下すものであるからだ。



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プロフィール
HN:
Hamhei HORIUCHI
HP:
性別:
男性
職業:
Researcher
趣味:
Reading, Coding, Thinking, Singing, & Football
自己紹介:
貴方が本を読み続ける限り、貴方は取るに足りない紙屑の存在に幻滅し続けるだろう。
Blogもそれと同じで、その殆どは読んだ人間に対して何も学ばせることの無い、全く意味を為さない落書きみたいな内容だ.

一方,文章を書くという行為は、主体に対して幾許かの成長を約束する.退化はあり得ない.
その一例として、物事を体系化する手順を学習することができたり,自己理解が促進されたり,さらには新鮮な驚きと発見が内から魔法のように引き出されることもある.

最後に、我々の価値観が互いを許容でき,かつ刺激し合う程度に『違って』いますように.
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