"Idle Talking About My Interesting things"
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「国語より数学の方がはっきりしていていい」
「数学にはちゃんと答えがあるけど、国語には明確な答えが無い」 というような内容の発言を何度か聞いた覚えがある。 だが果たして本当に国語に明確な答えはないのか? 私は寧ろ、以下のような言い方をした方が真実に近いのではと思う。 「国語には、明確な答えがないとしても、明確な間違いが常に存在する」 このバックグラウンドには、児童期における情緒教育の真の目的(国家単位)といった問題が絡む。 例えば以下のような問題を想定しよう。 =============================================== ボブはアリスのハンカチを拾ってあげました。 アリスはボブを「触らないで!気持ち悪い!」と罵り、 ボブからハンカチを引ったくり、燃やしてしまいました。 アリスが行ってしまうと、暫くの間ボブは燃え上がるハンカチを見つめ佇んでいました。 問. ボブのことときの感情として適切なものを以下から選びなさい A 悲しみ B 怒り C 喜び =============================================== このような問題は消去法で解いていくのがオーソドックスであり、C,Bと順に消していくと、結果答えはAとなる。 この問題において、B,Cが間違いとなる理由は、ざっくばらんに言うと「そのように考えてはならないから」であり、小学校の国語の読解問題などは大抵この理屈で説明できる。 つまり、教育という行為の目的は「『良い』人間を育てること」にあり、それは畢竟「画一的な人格作り」に帰着するのである。 上の例で言えば、ボブの心情を「喜び」や「怒り」と考える子供は「好ましい人間」の基準からは外れており、教育的には「ボブは悲しんでいる」と捉える子供が肯定される。 具体的には、A以外の答えを考える子供には「国語ができない」というレッテルが貼られ、その『正しい』考え方を持つことを強要される(テストで×を付けられる)。それが最後までできない人間は、一種の問題児として扱われることになる。 だが、これは一概に教育の問題点とはいえない。なぜなら現在の社会では確かに「画一的な考え方」を持てない人間というのは使い所が難しく(歯車としてうまく嵌らない)、後々生き辛くなることは目に見えている。なので教育の在り方として「いろいろな考え方を持つ人間を自由に育てるよりは、汎用的な人間を作りあげる」という選択も確かに頷けるのである。 結論: 国語における教育の目的は「画一的な人間を作り上げること」。そのための方法は「画一的な考え方を持てない子供に×をつけて、考え方を矯正する」。 PR |
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プロフィール
HN:
Hamhei HORIUCHI
HP:
性別:
男性
職業:
Researcher
趣味:
Reading, Coding, Thinking, Singing, & Football
自己紹介:
貴方が本を読み続ける限り、貴方は取るに足りない紙屑の存在に幻滅し続けるだろう。
Blogもそれと同じで、その殆どは読んだ人間に対して何も学ばせることの無い、全く意味を為さない落書きみたいな内容だ. 一方,文章を書くという行為は、主体に対して幾許かの成長を約束する.退化はあり得ない. その一例として、物事を体系化する手順を学習することができたり,自己理解が促進されたり,さらには新鮮な驚きと発見が内から魔法のように引き出されることもある. 最後に、我々の価値観が互いを許容でき,かつ刺激し合う程度に『違って』いますように.
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